【解説】番外編 谷中安規版画作品 1931(昭和6)年頃制作
【解説】
戦ひもをはりました。モウ空襲にをびえることはない。しかしあとしまつの道にはイバラがたくさんはえ
てゐて、それをかりとることは容易ではありません。これは大人たちのことで、あなたはそんな心配はせ
ずと、のびのびとよく遊びよく勉強をして下さい。平和のくに日本をつくつてくれる人はあなたたちです
から、いまからあなた方少年少女を珍重してをきます。(佐藤方哉宛。受信日:1946年3月18日)
版画界の異才として根強い人気を誇る谷中安規(1897-1946)の版画です。船橋市西図書館で開催された「文豪?佐藤春夫と太宰」展(2021年6月12日~8月29日)には、「女の顔」1枚を出品しました。本学で調査を進めている佐藤春夫資料からは、この「女の顔」を含めて16枚が見つかり、2016年に新宮市立佐藤春夫記念館で展示されました。版画は1枚1枚、新聞紙に挟んだ刷り立ての状態で、ボール紙製のファイルに納められていました。新聞紙の日付から、刷られたのは1931(昭和6)年であったと考えられます。
佐藤春夫と谷中安規の出会いは、大正末から豪華本の出版で知られた第一書房の主人?長谷川巳之吉の紹介によるもので、谷中は住み込みの社員として働いていました。のちに法政大学に招かれた佐藤は、自作童話集の出版を計画していた同僚の内田百閒(本名、内田栄造。当時の号は百間で後に閒の字に変えた)から相談され、装丁と挿絵の担当者に谷中を推薦しました。ほのぼのととぼけた味わいの中に不気味さも漂う谷中の版画は、『王様の背中』(昭和9年5月、楽浪書院)以来百閒文学のよき伴侶となり、名コンビと謳われました。
佐藤も百閒も、飄々として気まぐれな谷中に手を焼きながらも、その性格の純粋さをこよなく愛し、百閒は「風船画伯」のあだ名をつけて呼んでいました(「風船画伯」『心境』1934年7月号)。谷中が百閒の連載小説「居候匇々」(『時事新報』夕刊、1936年11月10日~12月25日)の挿絵を担当した際のエピソードは、佐藤の「章魚吹笛」(『文藝春秋』1937年9月号)に面白く紹介されています。また、佐藤の小説を絵本化した『絵本FOU』(1936年4月、版画荘刊)は、谷中の仕事の代表作に数えられています。
版画に夢を託し続けた谷中の生活は苦しいものでした。1945(昭和20)年4月13日夜の空襲で滝野川のアパートを焼け出されたあと、谷中は近所の掘立小屋で自活していましたが、栄養失調のため翌年9月9日に亡くなっているのが発見されました。谷中が大層かわいがっていた佐藤の子に贈ったメッセージも資料の中から見つかっています。亡くなる半年前、中学生になった佐藤の子に、掘立小屋の中から切々と訴えるその言葉には、今も人の心を打つ実感がこもっています。(河野龍也)
【参考文献】
?『佐藤春夫読本』(2015年10月、勉誠出版刊)