清国留学生の教育
日清戦争が終わると、清国は国家革新の方策として若者の日本留学を奨励しました。これを受け、1896(明治29)年から1911(明治44)年頃まで、清国から大量の留学生が来日しました。
下田歌子は、かねて欧州留学中から東アジアの連帯を強く願っていました。1901(明治34)年の実践女学校における清国留学生受け入れを皮切りに、1905(明治38)年には実践女学校に清国留学生部を設置するなどの取り組みを通じて、留学生の積極的な受け入れを行います。
以降、歌子のもとで実践女学校は日本における清国女子留学生受入の中心的な学校として、1922(大正11)年まで100名近い多くの卒業生を輩出しました。
こうした留学生の中には、辛亥革命で捕えられ処刑された秋瑾がいます。1905(明治38)年に入学し、実践女学校に在籍しました。革命家として、また過激な思想の持ち主として知られた秋瑾が入学するとき、舎監が心配して校長の歌子に相談しましたが、歌子はそういった人物にこそ教育が必要だと考え、「よく見抜いて大きく扱えよ」と答えたと伝わっています。