上京と宮中出仕、「下田歌子」 誕生
時代は江戸から明治へと移り、鉐の祖父と父は上京して明治政府に出仕します。翌1871(明治4)年、16歳になった鉐も父に続いて上京し、さらに翌年には残りの家族も皆が上京しました。
故郷を出るとき、鉐が国境にあたる三国山の峠で詠んだという和歌があります。
綾錦 着て帰らずば 三国山
またふたたびは 越えじとぞ思ふ
錦を着て故郷に帰るということは、立派に成功してその功績をもって帰るという意味で、この歌には鉐の意気込みと決意が溢れています。現在、岐阜県恵那市岩村町ではこの歌を石碑に刻み、生誕地と三国山の山頂に顕彰しています。
父の鍒蔵が鉐をはじめ家族を東京に呼び寄せたのには、鉐の優れた才能を何とかして伸ばしたいという考えがありました。鉐は八田知紀など優れた師の元で和歌を学び、また祖父の東条琴台からも漢学、古典その他の教えを受けます。
当時の鉐が、年頃の女性にもかかわらず読書や学問に没頭する様を見て、祖父が白粉を買って与えたり、気づかう手紙を送ったという逸話が遺されています。
1872(明治5)年、鉐は八田知紀その他多くの人々からの推挙を受け、宮中に出仕して明治天皇の皇后(昭憲皇太后)にお仕えします。出仕の栄えの日に詠んだのが、次の歌です。
敷島の 道をそれとも わかぬ身に
かしこく渡る 雲のかけはし
また、皇后の歌会で「春月」という題を頂いた折りには
手枕は 花のふぶきに 埋もれて
うたたねさむし 春の夜の月
と詠い、そのすぐれた歌才を皇后に愛でられます。これにより、皇后より「歌子」という名を賜ると共に、その評判は世に喧伝されることになりました。その後、皇后の学事には常に陪席を許されるなど、宮中で活躍すると共に、税所敦子、柳原愛子といった人々とも親交を深めました。