学祖ゆかりの品々
学祖下田歌子ゆかりの品々を一部ご紹介します。
①和歌短冊「冬河」
下田歌子(幼名 鉐)は幼少より大変に読書と学問を好み、また俳句や和歌、漢詩をはじめ、絵画にまで優れた才能を発揮しました。和歌「冬河」は、鉐が9歳の時に詠んだものです。
「見渡せは 寒さそまさる 大井川 氷の上に 積もるしらゆき」
②綾錦の歌碑(岐阜県三国山頂)
下田歌子(幼名 鉐)は、美濃国恵那郡岩村藩(現在の岐阜県恵那市岩村町)の、藩士の長女として生まれました。幼少より優れた才能を発揮した鉐は、17歳の時に父を追って上京すると、宮中へとその活躍の場を広げてゆきます。
現在、岐阜県三国山には、鉐が上京するときに美濃の国境を越えたあたりで詠んだという和歌の歌碑が建てられています。
新しい世界に旅立つ鉐の、強い決意が表れています。
「綾錦 着て帰らずは 三国山 またふたたびは 越えじとぞ思ふ」
③金蒔絵硯箱(昭憲皇太后陛下御形見 御下賜品)
上京した鉐は、その豊かな教養と和歌の才能を認められ、宮中に出仕します。
「手枕は 花のふぶきに 埋もれて うたたねさむし 春の夜の月」
「春月」という題を与えられた鉐が詠んだ歌です。
その才能は当時の皇后(後の昭憲皇太后)に賞賛され、「うた」(後に歌子)の名を賜りました。
④下田学校開業上申書
宮中を辞した歌子は、明治15年に「下田学校」と名付けた私立女学校を設立しました。(後の桃夭学校)
政府高官をはじめ上流階級の子女を対象として、自ら教育を行いました。
⑤和文教科書?国文小学読本
下田歌子は桃夭学校や華族女学校(後の学習院女子大学)での教育を行う傍ら、自らの手による和文?国文教科書の編纂を行いました。
「和文教科書」(明治18年)と「国文小学読本」(明治19年)には、歌子の国文学教育に対する熱意が見られます。
⑥家政学
下田歌子は、初めて「日本独自の家政学」を体系化し、書籍の形にまとめたことでも知られています。「家政学」(明治26年)は全2巻14章から成り、食物学、住居学、被服学から礼法、小児教育、家事経済にいたるまで、現代の家政学(生活科学)に通じる学問分野が網羅的に著されています。
下田歌子は、個々の家庭における女性の役割を重視し、日本社会を構成する個々の家庭の幸福こそが、日本の近代化をもたらすものとして考えていました。「家政学」の執筆には、その想いが表れています。
⑦宮中拝領品