歌子の遺したもの
下田歌子は、上流女子から一般女子まで、日本全国で精力的な教育活動と社会活動を行いましたが、最後までその主力を注いだのは実践女学校と女子工芸学校でした。
両校はそれぞれの特色をもって発展し、1908(明治41)年には財団法人帝国婦人協会実践女学校となります。理事に就任した歌子は、次の和歌を遺しています。
ときはなる 色も深めて ことくさに
たちまさらなむ やまとひめ松
この和歌には、「節操を守り信念をもって毅然と生きてほしい。外国の女性にもまけないで、日本のおとめたちよ」と、教え子に呼びかける歌子の心が詠われています。また、同年、歌子は渋谷で最初の私立幼稚園として「実践幼稚園」を設立し、園長に就任しました。
財団法人の設立後、帝国婦人協会実践女学校は組織?学則の改正を重ねると共に、目ざましい発展を遂げていきます。昭和初期、歌子の晩年にあっては、実践女子専門学校、実践高等女学校及び実践第二高等女学校の3校の構成となり、学生は、北は樺太?北海道から、南は九州?沖縄?台湾にまで及んでいました。3校は太平洋戦争後、実践女子大学、実践女子短期大学(現?実践女子大学短期大学部)、実践女子学園高等学校及び実践女子学園中学校として現在に至っています。
こうした中、歌子は自らも講義や和歌の指導を行ない、また修身科を受け持って実践倫理を説きました。講義は国文学、漢文学、家政学のいずれもが深い学識に裏づけられ、かつユニークな評説で定評がありました。中でも源氏物語の講義は、早稲田大学の坪内逍遙のシェークスピア講義と並ぶ名講義と言われています。これら講義は記録され、一部が後に刊行されています。
歌子はまた、著述活動も積極的に行いました。
「和文教科書」(1885年)、「国文小学読本」(1887年)、「家政学」(1893年)、「新選家政学」(1900年)といった教科書の編纂に加え、欧米留学から帰国した後は「泰西婦女風俗」(1899年)、「女子自修文庫」(1904~1912年)、「女子の修養」(1906年)、「婦人常識の養成」(1910年)、「家庭」(1915年)、「礼法」「結婚要訣」(1916年)など、女子の教養書を数多く刊行しています。
晩年には「香雪叢書」5巻(1932年)を完成し、「源氏物語講義」首巻?第1巻(1934~1936年)を刊行しています。
こうした数多くの功績が認められ、歌子は1908(明治41)年に従三位を贈られ、また1927(昭和2)年には勲3等に叙せられ、瑞宝章を賜わりました。
1936(昭和11)年10月8日、肺水症のため逝去。
晩年、病気が重くなってからも車椅子で講堂に出て講話をし、それもできなくなると校長室の前に生徒を集めて訓話をしたといいます。
くれたけの ふしどのうちに 学び得し
道を伝ヘむ 待てや教ヘ子
まよひなき 正しき道は 見ず聞かず
言わずむなしき 空にみちたり
生涯を日本女性の教育に捧げた下田歌子が教え子に残した、最後の和歌です。
墓所は東京都文京区の護国寺にあります。
また、生誕地の岐阜県恵那市岩村町乗政寺山墓地には、夫の下田猛雄と並んで分骨が埋葬されています。