<研究室訪問>河野龍也准教授
実践女子学園では、多くの教員が各分野において最先端の研究を行っています。
今回は国文学科の河野龍也先生にご登場いただき、研究内容についてお話していただきました。
「作家研究」から人と文化を見渡す
一人の作家の研究は、作品の背景をなす様々な文化的要素の発見につながります。
太宰治の書簡発見でも注目された「佐藤春夫研究」について語っていただきました。
佐藤春夫は、明治末期から昭和にかけて活躍した近代日本の作家です。詩と小説の両方に才能を発揮し、谷崎潤一郎の妻を譲り受けた「細君譲渡事件」でも有名です。現在、私が注目しているのは1920年前後、「私小説」という日本独特のジャンルが流行期を迎える頃です。春夫はフィクションを好む作家だったのですが、徐々にリアルな実体験を書くようになりました。「私小説」はなぜはやったのか、近代日本の作家にとってどんな意味があったのかを知る大きな手がかりが春夫にあると考えています。
佐藤春夫研究を始めたのは修士の1年の頃です。私の祖父は植民地時代の台湾生まれで、その祖父が生まれた頃台湾を訪れた佐藤春夫に興味を持ちました。彼の滞在は1920年のわずか三か月ほどでしたが、その後十数点もの台湾関連作品を残しています。これらは、発表当時から現在に至るまで注目を集め、台湾でも高く評価されています。『霧社』という作品集に集められた「台湾もの」は、植民者と被植民者との関係性や問題点までも取り上げており、規制の厳しい当時にあって抜群の批判精神を発揮しています。
戦前の台湾は、支配者としての日本人、中国大陸からの漢族系移民、台湾の原住民族という三者からなる不均衡な社会でした。佐藤春夫は、もちろん日本人ですが、そのまなざしは支配者のものではなく、出会った人々に寄り添うものでした。例えば、春夫に随行した通訳は漢族系の台湾人で、植民地支配に対する不満を述べています。春夫は共感を持ってそれを書き記しました。その立場を超えたフラットなまなざしと感性は、複雑な社会構造の中に住む現地の人々との人間らしい関わり合いから得られたものでしょう。当時にはない新しい視点の文学として、大きな評価を得ているのも、もっともです。
本年度の国外研修では、この『霧社』の背景を探ることがテーマです。佐藤春夫は、中学の友人?東熙市(ひがしきいち)に紹介された森丑之助(もりうしのすけ)(台湾原住民族の研究者)のプランにより、台湾の各地を旅しています。研究を進める中で、東熙市のお孫さんに出会えたのは嬉しいことでした。彼の実家では、佐藤春夫の思い出が百年経った今でも大事に語り伝えられています。春夫の訪問は東家にとってそれほどに印象深かったのでしょう。国外研修では、台湾に残る関係者の遺族と連絡を取り、春夫の体験に迫ってみたいと考えています。佐藤春夫がどんな交流をしてきたのか、どんなエピソードが残っているのかと思うととても楽しみです。
私の研究は、出会いに支えられています。東熙市のお孫さんもそうですが、佐藤春夫の全集を手がけられた牛山百合子さんにお会いしたことも大きな出会いのひとつでした。牛山さんは女学生時代、春夫の詩を心の支えに戦時中を生き、のちに研究の第一人者になりました。そのお手伝いをするなかで太宰治の書簡を発見しました。かつては「芥川賞事件」として世を騒がせたものでしたが、この書簡の発見により、佐藤春夫と若かりし太宰治の師弟関係を見直すことができました。佐藤春夫のように交友関係が広く、文壇の中心にいた人物を研究することは、国を越え、文学?歴史学?社会学など多分野に問題提起を行うことにつながっていくと考えています。
河野先生の著書
佐藤春夫読本(中)には昨年9月に
発表した太宰治の書簡全文も掲載。
『霧社』(佐藤春夫 著)
実在する人物を登場させ、当時の日本人?中華系移民?原住民族の関係性に鋭く切り込んだ春夫の「台湾もの」は、今も台湾で高い評価を受けている。