<創立120周年記念特集>創立者?下田歌子先生の教育活動を見つめる
実践女子学園から始まった、下田歌子先生の女子教育普及の取り組み
一人でも多くの女性に、学びの場と自立を。
実践女子学園は本年5月7日に創立120周年を迎えます。創立者?下田歌子先生の功績をさまざまな切り口から改めて見つめる記念特集として、今回は、実践女子学園から始まった下田先生の多彩な教育活動に焦点を当てます。上流家庭の子女だけでなく、広く一般の女性も教育を受け自立自営の道を歩めるよう、下田先生は壮年期から晩年に至るまで、精力的な取り組みを展開しました。
実践女学校?女子工芸学校
現:実践女子学園
帝国婦人協会※の教育部門として、1899(明治32)年4月、麹町区元園町(現在の千代田区麹町)に開校。一般の子女に幅広い教養と実践的な学問を教授することで、その自立自営を後押しし、ひいては女性の社会的立場の向上につなげることを目的としていました。この2つの学校が、本学のルーツとなります。
※大衆婦人が新時代に生きる日本女性としての教養と自覚を高め、精神的自立を図り、生活を改善することの支援を目的として、下田先生が1898(明治31)年に設立した団体。
下田先生の女子教育普及の取り組み年譜
下田先生は1899(明治32)年に本学園の前身?私立実践女学校?女子工芸学校を創設し、さらに多くの女子教育機関創設に携わりました。
下田先生が携わった学校
本学以外で下田先生が創設や運営に関わった代表的な学校(現在も存続しているところはその現状も)をご紹介します。
A:新潟女子工芸学校(新潟県)現:新潟青陵大学?短期大学部?高等学校
下田先生の全国遊説の結果、設立された、帝国婦人協会新潟支会の付属裁縫伝習所が前身です。設立と同年に「新潟女子工芸学校」と改称されました。修身や算術などのほか、工芸課程として裁縫や編物、刺繍などの教科が用意されていました。
現在は新潟青陵学園として大学や短期大学を運営し、医療や福祉、幼児教育などの分野に多くの人材を送り出しています。
B:順心女学校(東京都)現:広尾学園中学校?高等学校
1918(大正7)年に板垣絹子(板垣退助夫人)によって設立されて下田先生が校長となり、1924(大正13)年に順心高等女学校となりました。この学校は実践女子校の姉妹校という位置づけで、同じ方針のもとで教育が行われていました。
2007(平成19)年、名称を広尾学園に改称。同時に、男子にも学びの場を提供する、共学の中学校高等学校となりました。
C:淡海女子実務学校(滋賀県)現:淡海書道文化専門学校
下田先生の和歌の弟子であった塚本さと子によって設立されました。当初、先生は顧問を務めていましたが、高齢となった塚本さと子より、大正14(1925)年に校長を引き継ぎます。校長就任後、先生はこの学校を4年過程の高等女学校とし、名も「淡海高等女学校」と改めました。
その後、何度かの改称を経て、1985(昭和60)年、淡海書道文化専門学校へ。書道の実技や文化を学ぶ専門学校となり、現在に至ります。
D:夜間女学校
小学校を卒業後に「学びたい」気持ちがあってもその機会を持てずにいる勤労女子のため夜間女学校を設置するべく、下田先生は多数の設置申請を行いました。そのほとんどが修業年限2~4年、授業料は不要か極めて低額で、高等女学校卒業程度の学力を身につけさせる、というものでした。
E:その他学校
欧米教育視察より帰国した当時から構想していた女子農芸学校(農水産物を生産し乾物や缶詰の販売も行う学校)など、設立に向けて活動したものの実現しなかった学校もありました。
その他、下田先生は、実践女学校関係者による武田裁縫女学校(東京都)、北見女学校(北海道)の設立にも携わりました。
清国の女子教育発展にも貢献
清国初の女子教育機関?上海務本女学堂に日本人初の女教師として河原操子を送り出しました。その後、清国後宮の和育女学堂へ実践女学校教員?成田(木村)芳子を派遣。成田は現地で清国王夫人や王女たちの教育に当たりました。