下田女子教育の黎明
1882(明治15)年 下田学校(桃夭学校)創設
近代化が進む明治初期、女子教育確立による女性の社会的地位向上が求められていました。こうした社会的要請の中で、下田歌子は私立女学校「下田学校」(後の桃夭学校)を創設します。生徒は政府高官の妻女をはじめとし、一時は200名を超えました。これが下田歌子による女子教育の始まりです。
1893(明治26)年 下田歌子、欧州教育視察へ
欧米先進国に女子教育の範を求めるため、下田歌子は明治政府によってヨーロッパに派遣されました。イギリスをはじめ欧州各国の視察を行う中で、近代国家のあり方として、皇族や上流階級の子女だけでなく、一般女子に対する教育の必要性を痛感します。
2年後、帰国した下田歌子はその成果を皇女教育に生かすとともに、日本における一般女子教育実現のため、動き出します。
1898(明治31)年 帝国婦人協会設立
欧州女子教育の視察により、日本における一般女子教育の必要性を痛感した下田歌子は、その実現のため帝国婦人協会を設立します。あらゆる地位階層の女性に会員資格が与えられ、女性の啓蒙と地位向上を目的とする団体でした。
「帝国婦人協会設立主旨」において、下田歌子は以下のとおり決意を述べています。
「まことに揺籃を揺がすの手は、以て能く天下を動かすことを得べし」
「下等社会の女子が惨状、日々に危険なる断岸に向かひて猛進しつつある」
「ここに意を決して、一点の火を我が婦人社会に放つことを試みんとすなり」