著者は語る 仲町啓子先生 『光琳論』
仲町先生とご著書について
仲町啓子先生(文学部美学美術史学科教授)は、1985年から長きにわたり本学の学生、大学院生の指導に
当たってくださいました。今年度をもって退職を迎えられますが、昨年出版されたご著書『光琳論』が「德川賞」及び「國華賞」を受賞されました。
今回、受賞作執筆の動機から資料の収集方法、そして学生の皆さんに伝えたいことなどを語っていただきました。
本書の紹介と当館所蔵情報を当ページ末に置きましたのでご参考にどうぞ。
『光琳論』を書き終えて
江戸時代中期に活躍した尾形光琳(1658-1716)の研究は、卒業論文以来、長年手掛けてきた、いわば私のライフワークです。実は、光琳ほど伝記の詳細が判明する江戸時代の絵師はいません。それはひとえに、光琳がとても物持ちが良く、さまざまな資料を残してくれたからにほかなりません。それらの中には、遺言状や覚書などから借金の証書までさまざまなものが含まれていて、人間光琳の多彩な側面を垣間見せてくれます。あの金屏風の大胆な画風からは想像がつかないかもしれませんが、光琳は意外と生真面目な面を持ち合わせていたようです。
光琳の息子が養子に行った小西家に長く大事に保存されていたため『小西家旧蔵資料』と呼ばれるそれらの資料は、光琳二百回忌が行われた大正4年(1915)を機に広く紹介されることとなり、現在は大部分が京都国立博物館と大阪市立美術館に所蔵されています。大学院生の頃、それらを旧蔵者のお宅で初めて拝見した時の感激は忘れられません。光琳の指紋がどこかについているかもしれないなどと想像して、ワクワクしたものです。未だ学者になりきれない初々しい頃の思い出です。
本学に奉職してから、改めて大阪市立美術館(京都国立博物館所蔵分も現在は一括して大阪市立美術館に保管されている)でその資料を何度か調査させていただきました。『小西家旧蔵資料』には文献のほかに多くの画稿類が含まれています。文献資料でさえ、「実物」を見ることは重要です。書かれている紙の質、大きさ、墨色などの情報は、その資料の「性格」を総合的に判断するのに欠かせません。ましてや、画稿類には写真では伺うことのできない貴重な情報がたくさん含まれています。紙の表裏を丹念に見て、紙や絵の具の材質などを見極めていきました。さらに重要なのは光琳筆か否かを鑑定する作業です。その場でおおよその予想は立てますが、慎重を要することなので、帰宅した後に写真による厳密な比較検証を行いました。
美術史研究にとって作品の調査がいかに重要であるかを、県境をまたぐことも儘ならなかったこのコロナ禍で痛感しました。幸いなことに光琳の作品に関しては、これまでに多くの調査を重ねてきていたので、特に不自由は感じませんでしたが、比較のための資料には調査を断念しなくてはならないものもありました。作品は経年による変化を受けているとはいえ、作者が生み出した「本物」そのものなのです。作品に真摯に向き合い、そこに表現されているものをじっくりと読み解いてゆくことこそ、美術史研究の核心です。私の大学時代そして大学院時代は様式論(造形的な分析を主体とした美術史の方法)が全盛で、それは今でもなお私の研究方法の根幹をなすものです。若い頃にそれをしっかりと叩き込まれたことは幸せでした。本学でも、3年生を対象とした演習では、できるかぎりそうした方法を伝えることに努めてきました。
その後、欧米で新しく提唱された美術史研究あるいは文化研究のさまざまな方法が日本にも紹介されてきました。ニュー?アート?ヒストリーは、同時代の記号論、ポスト構造主義、フェミニズム、精神分析などとも結びついたアプローチで、既存の美術史研究を強く批判しました。またカルチュラル?スタディーズの考え方もこれまでの美術史に反省を求めました。こうした新しい潮流に触れることによって、私は、それまでのように単に作品内だけの分析に留まることなく、作品の社会的意味の解読や歴史的存在としての絵師の解釈を強く意識するようになりました。
尾形光琳の研究は、これまでにも多くの美術史学者が手掛けてきた分野です。福井利吉郎、相見香雨、田中一松、山根有三、河野元昭などの各氏は、いずれも光琳研究に金字塔を打ち立ててきた錚々たる学者です。一見入り込む隙もないように見えた光琳研究に、私が多少なりとも何か付け加えることが出来たとするなら、こうした新しい研究方法を踏まえつつ、改めて作品と向かい、絵師の伝記を考察し直したからかもしれません。江戸時代絵画史研究全般の進展に加えて、江戸時代の歴史研究、文化史研究、思想史研究における新たな展開も光琳を解釈するにあたって重要でした。「美術」は歴史を超越した特権的なものではありません。歴史的な産物なのです。美術を通して歴史を見つめ直す姿勢を常に忘れたくないと思っています。
退職する年に『光琳論』がふたつの賞を受賞したことはともて光栄なことでした。これから『宗達論』と『女性画家論』に取り組むのが残された課題と思っています。
書名: 『光琳論』 |
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