実践のお宝紹介
20世紀初期の新聞に見る実践女子大学
第6回目のお宝紹介では、明治時代発行の『中央新聞』をご紹介します。
『中央新聞』は本学図書館に原本所蔵している新聞であり、
明治38年の7207?7208号には本学についての記事が掲載されています。
19世紀末の1891年から太平洋戦争開戦前の1940年まで東京で発行された新聞『中央新聞』がある。山田風外が創刊した『絵入朝野新聞』を源流とする『東京中新聞』を、明治?大正期の弁護士?政治家の大岡育造が買収?改題して同紙名となり、後に国民協会、のち立憲政友会の機関誌となる新聞である。
同紙では、1905年(明治38年)の2月末から4月にかけて、「都下の女学校」という連載記事が40回以上に渡り掲載された。女子美術学校を皮切りに、連載順に日本女子大学校、女子学院、明治女学校...、と明治期に実在した女学校が紹介されている。実践女子大学の前身である「実践女学校?女子工芸学校」は、紹介校としては7番目、連載回数としては第25回と第26回の2回に渡っている。
比較的読みやすい文体で書かれているので、現在の漢字や送り仮名に直して全文を紹介するとしよう。20世紀初頭、明治時代後期における本学の姿が分かるだろう。
実践女学校、女子工芸学校(上) 掲載7207号
◎下田歌子女史 を本尊となし、数多の貴女紳士之が羽翼をなし、去32年4月帝国婦人協会というのが組織されると同時に、同会の事業として、教育、文学、工芸、商業、救恤の五問を設け、或は学校に或は研究会に、漸次其目的を実行す可く企図し、其第一着として同年麹町元園町に設立され36年4月府下渋谷村常磐松御料地内なる今の校舎に移転したのが、此より紹介せんとする実践女学校と女子工芸学校とである。
◎元園町時代 の両校は校舎も狭隘、生徒も少数で、誠に微々たるものであったが、下田女史の徳望の下には協会会員の寄付金も続々と集り、生徒も年を追って増加し、今は二千坪の敷地に広大なる木造洋風の校舎一棟、同じ寄宿舎一棟を有し、実践、工芸を合せて420余名の生徒を収容して、しかも教室の不足を感じて居る程である。
◎実践女学校 は如何なるものかというと高等女学校を標準として立てたものである。併し最初は「高等」の名を付するには、相応せぬ点もあったが、現今は万般の設備が悉く完成したので、文部省からも、寧そ名称を変更しては如何にとの注意もあったそうだが、さすれば学科の中には国語科の如き高等女学校よりはズット程度の高い物もあり又教育学、手芸等の科目は(現在こそ彼此格別の相違は無いが)元は実践女学校の特色の一とも見る可きものであり、かたかた今日まで知られ来った当名称を俄かに捨つるには忍びざる情もあるので、そは目下研究問題となっているそうだ。
◎女子工芸学校 は、女子に自営の道を立てさせる方針を以て設立しのもので、学科術科(本科)の二科に分ち、裁縫、編物、刺繍、造花、挿花、図画、押絵、速記、割烹の九君を教え、学科を兼ねて修業年限が三年である。(本科の外に専科、予科、補習科の三科あり)。
◎されば同校は「実践」とは太(いた)く趣を異にして、生徒も丁年以上の女子、例えば、既に婚嫁し又は母となれるか、良人を失い若しくは其他の事情に倣って、自立自営せざる可からざる万一の場合を覚悟せる婦人、既に良人に死別れたる婦人、或は家庭の都合上一日も早く活業を講ずるの必要に迫られ居る婦人などの志望者が最も多く、随って其階級も殆ど中流以下に限られて居ったが、近年は中流以上にも女子の実務教育という思想が波及して来た結果、上流家庭の令嬢達も続々入学し来り、現に谷干城子の二孫女の如きも同校に在りて、熱心工芸の事を勉強し居らるるそうである。
◎特殊婦人就業会 又同校には、生徒以外の婦人即ち歴々の婦人達の中で、特に造花のみを習得したいという志望者も少なからぬので、此等は別に客員として一団体を組織し造花を教授しているが、追々盛んになったら「特殊婦人就業会」という名称を付して新に独立のものを起そうかという評議もあるそうである。
実践女学校、女子工芸学校(下) 掲載7208号
◎無月謝生 帝国婦人協会が企図した事業中には、実践女学校の付属として、慈善女学校、女子工芸女学校の付属として、下碑養成所というのがある。下碑養成所の方は元園町時代に実施したが、渋谷に移転後は設備校舎の都合上、当分之を廃することとなり、慈善女学校は、まだ着手するの運びに至らぬが、協会員の中には、特に「慈善」の為に寄付した人も少なからぬので、其美志を空ふせざらん為めに、無月謝生というを設け、貧困なる生徒二十余名を無月謝で授し、中四名は寄宿舎に入れて学校の給仕をさせおるが、同校は学校経済の許す限り学科の種類に依りて、まだ多くの無月謝生を入れるようにせんと協議中であるそうな。
◎割烹専修科 此れは「工芸」の方に属する家事専修科の一分科である、割烹ということが斉家の上に於て最も肝要なる婦人の仕事であるとは今更言うまでも無いが、同科は単に割烹を教授する許りで無く割烹応用について種々の家庭的科学的知識をも与えている、例ば日本料理(井上善右衛門氏担任)西洋料理(和久井浅之助氏担任)の他に校長下田歌子氏が厨房整理の講話、副校長青木文造氏が理科(植物の成分其他家政学に関すること等)の講話を為すが如きである目下同科は西洋料理担任の和久井氏が召集されて戦地に行っているので、講話の他に日本料理許り教授しているそうだ。また同科は本学校生徒以外の婦人にも便宜修学せしむる目的を以て設けたのであるから、紳士の婦人達が其大部分を占めているそうだ。
◎聴講生 此れは「実践」の正科又は補習科に這入ることの出来ない女性の為めに昨年四月から新設したもので、其規定によりて聴講生たることを許可さるれば、自己の希望の学科のみを聴講修学することが出来るのであるから、事情ある婦人に取りては大層便宜がよい。
◎寄宿舎 は「実践」「工芸」の両校を合併したもので、123名を容る可き大きな建物であるが、目下は両校を通じ83名の生徒と7名の職員(女教師)とが寄宿し、時任竹子女史舎監の下に、生徒は家庭的実務を練習している、又同寄宿舎の新築費は、先年水交社で活人画を催した華族女学校卒業生、即ち下田女史の薫陶を受けた一団体の寄付金が其一半を占めているそうだ。
◎講話と機関雑誌 両行の首脳たる帝国婦人協会は学校事業の外に毎月一回の講話を開いて、益々同会が企図せる女子教育事業の伸張を計り、又同会及び両学校の機関として去32年11月より毎月一回「日本婦人」という雑誌を発刊して、教育文芸其他について新しき思想を鼓吹している。