著者は語る 『泣かなわりぃやろか : 少女たちの戦争』制作秘話
花澤氏とご著書について
花澤怜子氏はご自身の成長過程のご経験から、生きて行く為に必至の「食べること」を学びたいとお考えになり、本学家政学部の食物学科をお選びになり、昭和30年3月にご卒業されました。
本紙芝居は城島学長、実践桜会千葉県支部のご助力により、図書館へご寄贈いただくことになりました。
なお、本書の紹介と当館所蔵情報を当ページ末に置きましたのでご参考にどうぞ。
戦争体験紙芝居を作るに至った経緯
私の居住地千葉市では、千葉市、千葉市教育委員会及び各新聞社の後援で「ちば?戦争体験を伝える会」が発足して数年になります。
あるとき偶然、この会の主催者を紹介され、「戦争体験者の少なくなって行く現在、是非体験を語る紙芝居を制作してほしい」、と依頼されました。筋書はともかくも絵など数十年も描いたことがなかったのですが、再度の要請を受けながら逡巡(しゅんじゅん)したあげく、私の体験でも役に立つならば???、と決心し、小学生時代に使用したクレパスを使って描いてみようと決めました。
戦時中を思い出し、制作【伝えたい想い】
思えば私達の世代は生まれながらにして戦火の燻りの中で成長して来たのです。昭和7年満州事変、12年日中戦争、16年太平洋戦争と続き、20年8月15日を以て終戦となるまで戦時色に塗り込められた時代に育ったのでした。成長過程での忘れ得ぬ忌わしい思い出の数々、心の底に生き続けて来た事柄が絵を描き出すにつれ、恐ろしい程鮮明に的確に甦ってきたのです。これは本当にあった事なのだ、私が体験した事実なのだ、こんな事は二度とあってはいけない、そのために本当のことを残しておかねばならない。その思いを込めて描き続けた日々でした。
筋書はかつてようやく決心して書き出した幾編かの戦争体験記録を集約し、「伝える会」の主催者と相談して作成しました。
心配したのは果たしてこの筋書と絵が上演した際観客に正しく伝わるだろうか、ということでした。戦争を知らぬ世代の人達は単なるお話として聞き流してしまわないだろうか、それには書いた本人、私が心を込めて語らねばならない、何よりも自らの体験なのだから。
表題は同級生の言葉、それは昭和20年8月終戦の日の翌日、終戦を告げる学校長の落涙に生徒職員も涙する中で隣席の友人が囁いた私にとっては生涯忘れ得ぬ一語に決めました。そして表題の方言の解説とともに私の最も知ってほしいこと、覚えておいてほしいことの言葉を入れました。それは「戦争とは戦闘員のみでなく、非戦闘員、弱者、子ども達までもまき込んでしまう」という現実を心に刻み込んでほしい、ということなのです。その何よりの証拠がこの紙芝居の内容だからなのです。
第二次世界大戦の末期、あくまでも「任意」の名の許に日本では中等学生が、ドイツでは小学校上級生までも戦時動員されました。
ひとくちに「平和」というのはたやすいことです。では平和とは何なのでしょう、どういうことなのでしょう。戦争を知らぬ世代の人達は今現在の生活をどの様に見ているのでしょう。日々を何の心配もなく恐れることもなく、安心して過ごせる有難さ、それは当たり前のことなのですが一度戦争が始まると全ては無になってしまうのです。それどころか今まで予期せぬ苛酷な事態が次々と起こって来るのです。
疑う事を許されず、言論の自由を奪われ、全ては勝利の日まで、と命の危機に脅えつつ、戦闘の一端を荷わされた若年層の体験を通して改めて戦争の惨酷さ、無意味さを知って頂きたいのです。
紙芝居が完成して【願い】
この紙芝居の舞台となっている和歌山県の出身者で私の疎開先の学校の同級生に作品を見てもらいました。話が進むうちに彼女は大粒の涙を流し、何度も何度も合点しました。絵の風景描写にも正しく地名や山や川の名称まで指摘してくれました。そして「よくぞあの辛い時代のことを描いてくれた」と感謝され、「二度と戦争を起こさぬためにもこれは是非とも大勢の人達に見てもらいたい」と言いました。
昭和20年以降日本は不戦の国となり、現在まで安定した平穏な日常を過ごせています。今学窓に学ぶ人達、充実した学業、設備の整った学舎、自由に学べる毎日を振り返ってみて下さい。私達の世代のように教科書も学用品も手に入らず、空爆に脅え、果ては学業を放棄させられ、兵士と共に国土死守防衛へと駈り立てられた未成年の子女たちのことを。
戦争を知らぬ世代の方たち、どうぞこの話を忘れずに、二度とあのようなことが起こらぬ始まらぬためにも、人々の心構えと、正しく世相を見据えて過ごしてほしいと願って止みません。
書名: 泣かなわりぃやろか : 少女たちの戦争 |
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