明治の文豪?夏目漱石の英国留学の意義を紐解く特別授業「漱石と英国絵画」が10月13日(火)、実践女子大学短期大学部設立70周年を記念して、オンラインで開催されました。特別講師に漱石作品の英訳で知られる恒松郁生(つねまつ?いくお)崇城大学名誉教授を招き、漱石文学に与えた英国絵画の影響について講演。全体を通し、恒松氏は、「英国留学の経験なくして漱石は語れない。漱石がノイローゼに陥らず楽しいロンドン生活を過ごしていたら、果たして後の作家漱石は誕生していたか考える必要がある」と強調しました。
特別授業は、本学短期大学部日本語コミュニケーション学科の髙瀨真理子教授が担当する「文学論b」の中で実現しました。午後1時15分すぎ、渋谷キャンパス50A教室とロンドン郊外サリー州の漱石記念館、視聴者をZOOM会議で結び、恒松氏が現地時間の早朝5時すぎから1時間半にわたり講義しました。
漱石は1900年、33歳の時に渡英し、2年間ロンドンに滞在しました。この留学期間中、漱石が現地でどんな絵画に触れ、そのことが漱石文学にどのように投影されたかを中心に授業は進行しました。恒松氏は「漱石は英国文学を理解するには西洋絵画の知識が必要不可欠であることを認識していた」と語り、漱石は作品に絵画を登場させることで、「作品に奥行きを持たせ、読者に想像する世界を残している」と指摘しました。その上で、英国絵画が漱石文学に影響を与えた例として、『草枕』、『三四郎』、『それから』などの作品を挙げました。
このうち『草枕』は、英国人画家ジョン?ベレット?ミレーが描いた絵画《オフェリヤ》の影響を挙げました。件(くだん)の絵画は、『草枕』の作中に、「オフェリヤの面影が忽然(こつぜん)と出て来て、高島田の下にすぽりとはまった」というくだりで登場します。恒松氏は「漱石は英国滞在中、テート?ギャラリーでこの傑作を見たものと思われる」と指摘しました。
《オフェリヤ》は、大ロンドン市南西のサリー州にあるトルワース付近のホッグズミル川付近で描かれましたが、世界に先駆けてその場所を特定したのは、他ならぬ日本人の恒松氏でした。教授は「オフェリヤの背景が描かれた場所をずっと探していた。約20数年前に(幸運にも)古文書をもとに見つけた」と話しました。
また、恒松氏は漱石作品『三四郎』に登場する絵画《ストレイ?シープ》の写生場所も「これも私が発見した」と明かします。《ストレイ?シープ》は英国人画家ホルマン?ハントの作品で、描かれた場所はイギリス南東部イースト?サセックス州にある歴史ある海辺の町「ヘイスティングス」の海岸の「恋人たちのベンチ」付近だとしています。
一方、『坊ちゃん』に登場するのは、「光の画家」として知られるJ?M?W?ターナーの《チャイルド?ハロルドの巡礼》です。赤シャツが「あの松を見給え、幹が真っ直ぐで、上が傘のように開いて真っすぐで、ターナーの画にありそうだね」と野だいこに言うと、野だいこが「まったくターナーですね。どうもあの曲がり具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と答えるワンシーンです。
『坊ちゃん』の舞台である松山には、この絵画に似た松の生育する島「青島」があり、地元の人はその島を「ターナー島」と呼んでいるそうです。「漱石は非常にターナーの作品が好きで、漱石の中ではターナーの絵画は非常に重要な意味を持つ」と恒松氏は続けました。
『吾輩は猫である』も、英国絵画の影響を大いに受けていました。具体的には、猫画家といわれるルイス?ウェインの絵葉書です。『吾輩は猫である』には「やがて下女が第二の絵はがきを持ってきた。見ると活版で舶来の猫が四五匹行列してペンを握ったり…」というシーンがあり、これはルイス?ウェインの絵葉書に描かれた構図そのものだからです。
また、漱石はよく月刊のイラスト入り出版物として知られる『ウインザー?マガジン』という雑誌を読んでいたと言います。雑誌の中でルイス?ウェインの猫の絵がよく出ていたことも要因の1つだろうとも恒松教授は語りました。
恒松氏は、1951年鹿児島県生まれ。1984年に私財を投じてロンドンのクラバムに漱石記念館を設立し、同館館長に就任しました。2004年から熊本県の崇城大学で教鞭を取り、図書館長、副学長を経て名誉教授。2016年にクラバムの記念館を閉館しましたが、2019年にサリー州の自宅を改装して再開館しました。
髙瀨真理子教授の話
コロナ禍で恒松氏の来日も、他大での講演も、中止や延期になりました。記念行事は当年をおいて他はないので、逆手にとってこの状況下での可能性を考えました。ZOOMでの参加者に地方の方々が多かったのは、やはりひとつの可能性を示していると思います。イギリスとライブで繋げたのは本当に良かったと思っています。恒松氏には心から感謝しています。
取材メモ
私は今まで漱石の純文学作品を読むたび、大学の専攻が私と同じ英文学科なのが不思議でした。彼の作品に西洋の要素をさほど感じなかったからです。ですが今回、英国絵画から漱石の作品を眺めると「こんなところにも反映されている」と、思いの外、外国のエッセンスが多い事に気付かされました。そうした漱石作品の奥深さを探すために、もう一度作品を読み直したくなりました。まずは『坊ちゃん』から。