本学大学院で学ぶ料理研究家の青木敦子さんが、「名誉フードスペシャリスト」の称号を受けました
本学の大学院で学ぶ料理研究家の青木敦子さんが、公益社団法人日本フードスペシャリスト協会から「名誉フードスペシャリスト」の称号を授与されました。今年度創設された同称号の認定第一号となります。料理研究家として長年積み重ねてきた実績が、全国で22人しかいない栄誉にふさわしいと評価されました。
意外なことに青木さんはフードスペシャリストやフードコーディネーターの資格を持っていません。内実を明かせば、「私がフードコーディネーターのような仕事を始めた時はフードスペシャリストやフードコーディネーターの資格はまだ作られていなくて…。フードコーディネーターの協会もありませんでした」。青木さんらフードコーディネーターのパイオニアの存在に、世の中がまだ気付いていない黎明期だったのです。
メディア出演は数え切れず
そのせいでしょうか。彼女から事前にもらった「メディア掲載?TVラジオ出演メモ」には、A4用紙3枚にわたり、小さな文字でびっしりと番組名や新聞?雑誌名が書き込まれていました。すべてが青木さんがこれまで積み重ねてきた食に関する啓もう活動の自分史です。それによると、出演テレビはNHKや民放キー局はすべて。新聞は朝日や読売、毎日の三大紙はもとより日本経済新聞…等々。そして掲載雑誌の類は数え切れません。
日本フードスペシャリスト協会のHPによると、名誉フードスペシャリストの称号は「専門的?総合的知識と技術を有して食品産業発展に貢献した者」か、もしくは「食について明確なる情報を提供することにより国民の食生活の向上に顕著な功績をあげた者」に贈るとあります。今回称号を贈られた22人の中で、料理研究家は青木さん唯一人。なぜ、名だたる大学の学長や教授らに伍して青木さんに称号が贈られたのでしょうか。もう説明はいらないでしょう。
青木さんは本学のOGです。当時は東京都日野市神明にあった旧短期大学の食物栄養学科を卒業しました。市内に下宿し、徒歩で30分の神明キャンパスまでの往復を毎日繰り返す、どこにでもあるような女子大生の日常を過ごしました。「生活はすべて日野市内で完結していました。親に『アルバイトをしちゃだめ』と言われたので、アルバイトもしませんでした」。真面目な学生生活のお陰で、もちろん栄養士の免許は余裕で合格です。
やりたいことが分からず思い悩む
在学中を「授業は単位を取るのが大変だったけど楽しかった。料理が好きだったので」と振り返ります。しかし、そんな気持ちとは裏腹に、内心は満たされませんでした。というのも「自分が本当は何をやりたいのかが分からずにいたから」と明かしてくれました。在学中の学校実習や病院実習を経験するにつけ、ますます「自分は栄養士に向いていない」という思いが強くなったといいます。
卒業後は旧住友銀行(現三井住友銀行)に就職しましたが、それも何をやりたいかが自分でも分からないため、「一回とにかくOLになった」のが真相でした。モヤモヤ感が消えないまま、配属された東京営業部(千代田区丸の内)で振込業務などの窓口業務をこなす傍ら、夜間のインテリアコーディネータースクールに1年間通ったり、お茶やお花を習ったりしたといいます。こうした自分がやりたいことを模索する日々が続き、そしてとうとう親の反対も押し切り、5年近く勤めた銀行を辞めてしまいます。
転機は、その後アシスタントで入ったデザイン事務所時代に訪れました。偶然、その事務所にフードコーディネーターの人がいたのです。彼女がホテルやレストランの花や皿なりをコーディネートしつつ、料理のメニューを考える仕事ぶりを目の当たりにして、青木さんは「私がやりたい仕事はこれだ」と心が躍ったと当時を述懐します。
また、この頃、アシスタントを募集していたフードコーディネーターの先生に巡り合う幸運にも恵れました。その先生はTVで多くの情報番組やドラマ、バラエティ番組のフードコーティネートを手掛けていました。青木さんはその先生のアシスタントに採用され、テレビのバラエティ番組という活躍の場を獲得。念願のフードコーディネーターとしてキャリアをスタートさせることができたのです。
TVで料理研究家にステップアップ
バラエティ番組のアシスタントは約10年間続けました。タレントさんがつくる料理を考えて準備したり、スタジオで食べるものやクイズ番組に出てくる料理を作ったり…。24時間体制で年間300日も働き詰めでした。この間、「得意料理をつくらなくてはいけない」と思い立ち、イタリア?フィレンツェに1年間、料理留学もしました。帰国してからはテレビの仕事に加えてイタリア料理教室の開催も加わり、さらに多忙な日々が続きました。
料理研究家を名乗り一本立ちするのは、2007年ごろだったと言います。フードコーディネーターを担当した人気バラエティ番組も、いつしかマンネリ化し、年二回の企画に縮小されてしまいます。持て余し気味の時間を使って料理本を何冊か書いたところ、これが大当たり。例えば、青木さんの代表作の一つ、「調味料を使うのが面白くなる本」は27版を重版する大ヒットになりました。本の話題がきっかけで頻繁に、いろんな番組に出演したり、新聞や雑誌の取材を受けたりするようになったのは、この頃からです。
こうなるとフードコーディネーターの肩書が、しっくりこなくなりました。青木さんによると、「フードコーディネーターはどちらかと影の存在」だからです。そこで、使い始めたのが「料理研究家」の肩書でした。「表に出るときは料理研究家、裏の仕事をする時がフードコーディネーター」と使い分けるようになりました。後に名誉フードスペシャリスト第一号の称号を授けられる「料理研究家 青木敦子」の地歩が、この頃固まりました。
青木さんは今、本学の大学院生です。今は論文や実験が優先で、研究と仕事の割合は9:1とか。最近は「仕事を頼まれても、よほどのことがない限り断っている」そうです。たまに大学院の研究に支障がない範囲で出演するのが、昔から出演させてもらっているというテレビ東京の「なないろ日和」ぐらいと話してくれました。
大学院5年目、研究漬けの日々
その大学院生活は、今年で5年目を迎えました。青木さんによると、やりがいのあった仕事を中断してまで大学院進学を思い立ったきっかけは「(大学院という)自分が何かを知りたいと思った時に分からないままじゃなくて、聞ける状況が欲しい。確かな情報をキャッチできる環境づくりがすごく大切」という思いからでした。というのも「視聴率のいいゴールデンの番組では特に自分が話したことへの反響がすごい。いい加減なことは言えない」と痛感していたからでした。
その研究内容はというと、「線維芽細胞を培養してコラーゲンやエラスチンを分泌させ、それらがUV照射によってダメージを受けるので、それを食品の中に含まれる機能性成分で回復できるか」。あるいは「人間の老化が糖化によって起きたりするので、糖化とコラーゲンの関係」とか。こうした食と関わりのある研究を「楽しみながら、やっています」と笑顔で話してくれました。ちなみに、指導教授は食生活科学科の松島照彦教授です。
翻って、大学の選択を含めて、青木さんはなぜ食との関わりを職業に選んだのでしょうか。本人によると、小さい頃は「食べ物のそばを離れない」ような子供だったとか。例えば、青木さんの兄と2人でジュースを分ける時も「必ず量の多い方を取る。量の多い方を取られると泣く」と笑います。「とにかく食べることが大好き、作ることも好きで、食いしん坊だったんです」と振り返りました。
好きこそ物の上手なれだったのかも知れません。青木さんは10代から20代にかけ、何をやりたいのか分からず悩んだ時期もありましたが、気が付けば自分が最も好きな分野を職業としていました。そんな青木さんには、フードスペシャリストの意義を世の中に広める広告塔の役割が期待されているといえるでしょう。青木さんは、「協会の方には、テレビに出る時とか、いろんなところでフードスペシャリストを宣伝してくださいね」と言われているそうです。
挑戦して見つけて欲しい
最後に、青木さんは自分の経験を振り返り、本学の学生にこんなアドバイスを贈ってくれました。
「学生時代って、本当に自分が何をやりたいのか分からなかったりします。でも、失敗を恐れず、いろんなことに挑戦していけば、これだというものが見つかった時に、ぱあっと世界が広がります。だから、すぐに決めなくても、いいのではないでしょうか。いろんなものに挑戦し、自分に合うものと合わないものをセレクトしてみてはどうでしょう。失敗しても自分の糧になります。何もしないのではなくて、いろんなことに挑戦して、失敗して学んで、それで好きなことやりたいこと決めていくというのが、いいと思うんですね」
横顔
「趣味は旅行」と話すだけあり、訪れた国の多さには驚かされます。とりわけヨーロッパは「これまで50回ぐらい行きました」。料理留学で住んだこともあるイタリアが最多で、「友達に会いにとか、食やワインの祭典を見にとか、オリーブオイルやワインのソムリエの資格を取りに勉強しにいくとか、ちょこちょこ行ってます」と言います。またスペインにも「オリーブオイルと料理の勉強をしに2か月くらい」。フランスも、料理学校に通うなどで「20~30回は行っています」と話してくれました。
ただ、海外旅行はコロナ禍で1月にフランスを訪れたのが最後となり、今は「画像を視て我慢しています」。日本にいる時は、休日の楽しみが「友達と食べ歩き」でしたが、今はコロナ禍で「自宅で海外サッカー観戦が多くなりました」と嘆くことしきりでした。