アラン?ウィッカー
Pragmatic Ecological Psychology
A. Wicker
人間?環境学会(MERA)第16回大会
キーノートスピーチ
ここでは標記スピーチおよびパネリストのスピーチを聴いて考えたことを書き留めてみる。
ウィッカー氏は生態学的心理学の入門書として長い間定番の地位を保つ「生態学的心理学入門」(九州大学出版会)の著者として著名な方である。生態学的心理学の創始者であるR. バーカーの直系の弟子でありながら、それをmodifyした人物として知られる。バーカーは行動セッティングを記述することに一生を費やしたが、ウィッカーは特定の行動セッティングを対象とし、その設立?運営に介入し、その環境を改善することを一つのテーマとし、そのプロセスを何らかの方法で(特に質的な方面から)記述することで研究とするというスタイルを取っているようである。
※実はウィッカー氏は健康上の理由で来日が遅れ、実際に発表することはできなかった。九州大学の南先生による代読(日本語!)であった。資料が配付されたので、それも参照しながら続けていこう。
行動セッティングとは!?
Time and place boundaries
People and objects - both are interchangeable
Regularly occurring pattern of behavior (program)
The features and arrangement of physical objects are compatible with the program (synomorphy)
Hierarchy of influence
Self-regulating processes preserve the program
?ある行動が起きる場所?時間帯は限定できる
?その行動セッティングは構成員と構成物があり、他の構成員や構成物と交換可能である
?日常的に繰り返される行動のパターンがある
?物理的環境はその行動に適合するような特徴を持つ
?人や物が影響を与える度合いの強さはさまざまである
?その場面をを継続させる自律的な傾向が存在する
こういったことを記述することで、行動セッティングを捉えるということだろう。
行動セッティング理論は、行動の個人差よりも場所における行動の共通性に着目している。確かにいろいろな場所(オフィス、学校、自分の部屋e.t.c.)で、人は類似した行動を取り、家具調度を含めた環境にも共通性がある。それを言ったことには意味がある。しかし、町の行動セッティングを網羅的に記述しても、記述したという以上の意味があるのだろうか(何か知識が得られるのだろうか)。それが疑問だった。
たとえば、シノモルフィのよい事例というのでもあれば、環境を改善し、よりよい行動セッティング(行動場面)に変えていくことができるかもしれない。そういうことはやらないのだろうか。やらないとすれば、何の意味があるのか。
ウィッカー氏も同様のことを感じたのかもしれない。
Contemporary ecological psychology
Focus on one or a few behavior settings
Greater use of qualitative research methods
Interventions in service behavior settings
Creation and closing of retail and service firms
Setting dynamicss explained as sense-making
- Individual differences and change in behavior settings
Environments beyond behavior settings considered
?少数の行動セッティングを対象とし、
?質的な研究手法を多く取り入れ、
?サービス業の行動セッティングに介入し、
?小売りやサービス業の現場の始まりと終わりに立ち会い、
?意味の生成としてセッティングの動的な変化を記述し、
?行動セッティングの環境というものを考察する
さて、実際にそういうことをやってみて、そこから学んだことを記述する、そういう研究姿勢を彼は薦める。しかし私は、それが学問たり得るのか、不安である。つまり、何に役立つ知識が得られるのかが現時点では不明確だと思うのだ。
ヨセミテ公園のバスがオーバーフローし、子供やお年寄りがバスに乗れない事態を見て、縄で順番待ちの列を作ったら、整然と乗り込めるようになった。それは心理学的というより実際的で、別に心理学者が出て行かなくても、善意と行動力のある人が実行すればいいだけの話だ。そして、手法としても、心理学者であるからという何かがあるわけでもない。特段の手法を持たないから、一般の人が知らないことがわかる訳でもなかろう。「解決したい」→「解決した」という善意をケーススタディとして記述しても、膨大な事例が収集されるだけで、他の事例に有効なアドバイスをもたらせるかが疑われる。
私はそれをやるなら、「使われ方調査」のようなやり方にした方が明確な知識を生み出すことができると思う。仮説を立てて試行し、それを何らかの形で評価する。それをサイクルとして実施するというものだ。これだと、原因→結果系がはっきりするから知識としやすい。
講演を聴きながら取ったメモをそのまま載せてみる。このあたりのことを生々しく書いているからである。
よりよく行動場面を設定したり、行動場面を運営したり、が目標。それに役立つ知識が欲しい。
Case study of Rose's Caffe Luna
"mudding through" で、何を見出すのか。
状況、プロセスなどを記述する。どんな観点で記述する事柄を決めるのか。それは何に役立つのか。(大量の記述だけが残されていくという可能性はないのか。)記述から理論を生み出せるのか。
どう社会貢献するのか。
実践者になるのか。記述者になるのか。
改革ではなく改善に向く?
ウィッカー氏も、このあたりは認識しているのかも知れない。研究(記述?)を、もっと大きな枠組みの中に位置づけるという項目があったから。そのあたりは具体的な位置づけ方について聞いてみたかった。
パネリストのお話の中では、白鴎大学の平田先生のお話が印象に残った。
学校環境について研究してきたが、そこには認知学派と生態学派の2つの見方がある。個々人に光を当てるか、全体のシステムに光を当てるかの違いということだろう。こういう分類はあまり意味がないことが多いと思う。どちらの観点でもわかることがあり、どちらかの観点の方がわかりやすい事柄が存在するからだ。両方やってみればいい。そうするとMulti-Methodになる。
平田先生が紹介した「少数派の存在(synomorphicではないと認知する子供の存在)」の話は生態学的な視点だと切り捨てられてしまう可能性がある。(※複雑系のシステムとして捉えればいい?)
Ecological, systematic observation
Case studies
Assessing student and teacher perceptions
これは平田先生のスライドのメモだが、こういったマルチ?メソッドこそ、全体を捉えるのに相応しいのだろう。
「人が大勢いると学校に行けないと感じていた子供たちが、小さな学校に行くことで通えるようになる。」ということを報告しておられたが、これは個人差とシステムのコラボレーションと考えても面白い。
ストレスフルな課題を与えて課題に取り組んでいる時と終了した時にαアミラーゼ(ストレスの度合いの指標)の量を計測すると、ストレスの活性が高い人ほど大きく変動する。つまり、ストレスに弱い人ほど反応が過剰になるということだ。そういう報告もされた。これは、学校の大きさが影響を与えてしまう子供達がどういった個性を持っているかを説明するのにも使えそうな結果である。
そして、行動の個人差と関わるのは性格のようなものではなくて、ストレス耐性とか環境認知のようなものではないかと言われたのが印象的だった。
Individual differences
Tolerance, stress
Personality
Perceptions toward preferred environment
実は、私の街路景観評価と個人の特性の関係を探った研究でも、ストレスと関係しそうな指標が出てきている。
街路景観評価と疲労感の関係(研究5)
最後に、フロアからMさんが手を挙げて言っていたことも書き留めておきたい。(ただし、これは私なりの解釈を入れた記述であることをお断りしておく。)
行動を説明するのに、差異に着目するのではなく、共通性を記述するために生態学的心理学の手法は使えるのではないか(「現実からふわっと浮かせて」というような独特な表現を彼は使っていた)。ロール、ルール、ツール。これを合わせて「ルル三錠」。これで生活場面を捉える。そういうことができる。
さて、捉えた後、それをどういうインストラクションにするか、つまり、使える知識とするのか、それが問題だ。
....私もそう思う。
fin.
2009.5.24
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