テストについての前編?
先年、カラーデザインの演習科目の採点について、そういった科目を担当している先生方で意見交換する機会があった。もちろん出席状況なども加味されるのであろうが、そこで意見が大きく割れたのは「でき」を採点するかどうかであった。
「でき」は点数に関係させないという先生がいたのだが、その言い分は、「デザインの良し悪しの評価は人によって異なるのであり、客観的な評価は難しい。したがって、プレゼンテーションの説得力ないしは丁寧さを評価することになる。」というものであった。
加えて、色覚異常の問題が取り沙汰された。男性の20人に1人、女性だと500人に1人の割合で存在するという、赤と緑を混同してしまう人達の問題である。ドルトンという科学者の話が有名だが、それは真っ赤な靴下を、しぶい茶色と勘違いして母親にプレゼントしたというものだったと思う。こういうことがあるのだとすると、まじめに課題に取り組んでも、突拍子もないものが提出されてくる可能性がある。それを採点してしまっていいのかという問題提起であった。
一方、「でき」を主に採点するという先生の言い分は、実際にデザインを仕事にすればシビアに評価されるわけだし、その評価こそが基準なのだから、避けて通るのはおかしいというもの、デザインセンスのようなものは、必ずしもまじめさや丁寧さと同一ではないと思われるが、そういった部分の評価が為されなくていいのかというものだ。
どちらにも、もっともな理由があり、どう採点すれば良いかのコンセンサスは得られなかった。
私は、どちらかというと後者である。前者だと、学生が納得できない気がする。ぜんぜんセンスがなくて、説明だけかちっとしたものの成績がいいなんて、許せるだろうか。私が学生だったら、努力の跡はあまり見られなくても、うっとりしてしまうデザイン案の方に一票入れたい。まあ、庶民は天才が好きなのである。
そうは言っても、前者の主張ももっともであるから、それをどう考えるかは明らかにしておくべきだろう。
まず、評価の個人差(=採点者の好み)の問題については、2つのことを書いてみる。ひとつは、昔、非常勤のデザイナーの先生と評価比較をしてみたことである。当時の助手も参加して、3名の採点を比較してみたが、割合良い相関があると感じられた。違いは、デザイナーの先生はかわいらしいものが好きで、そういうデザインについては私より高得点を与えていたことが印象に残る程度である。画家の世界になれば、みな腕は一流だから好みの問題がクローズアップされるかもしれないが、玉石混淆の学生のレベルであれば、センスがあり、好きだから丁寧に作品を仕上げる、そういう学生とそうでない学生の違いを示す因子軸は太く、無視するのは忍びないのではないかと思うのである。
とは言っても、かわいらしいデザインやポップなデザインに出会うと迷う。そういったテイストが好きな人なら...という基準で判断することを最近は心がけている。たとえ、私はぜんぜん良いと思っていなくてもだ。採点者として不自然さは付きまとうが、まったくできないということでもない。やはり、仕事の丁寧さとか、バランスとか、いくつかの視点で見ることはできる。ジャズが好きではなくても、どれが名作か何となくわかるとか、そういうことは、ある程度は存在すると思うのだ。
もし、自分にはそういうことはできないというのであれば、複数の人間で評価するという手もある。設計の講評会は複数の講師によって為されることが多いが、これは多様な視点を確保するための措置だと思う。学生に評価してもらうことも考えられる。これは実際に実施しているのだが、授業で評価してもらって、多くの人に一番好みの作品だと推薦してもらった学生はやはりうれしいらしく、後からそのことを話してくれることがある。結構、評価はばらけるし、評価の理由を聞くと、「ピンクが好きだから」みたいなシンプル極まりない回答にとまどうこともあるけれど。いろいろあるということを理解するのも、勉強だ。
さて、色覚異常についてであるが、これはあまり考慮してこなかった。女子大だから問題が起こる確率は低いと思っていたこと、現実として一人一人検査をする時間もないことがその要因である。簡略なやり方(たとえば、カラーマネジメントして検査画像を映し出してみるというような)である程度チェックできるのであれば、それをやったらいいと思う。そういうことを言ったら、それは差別につながるというような意見も出た。そう言ってしまうと、確かにできは評価できなくなる。私は、差別ではなくて配慮のための区別だと思うが。
とりあえず、ここまでとしよう。続きは、また後で。
fin.
2007.7.20
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