変貌する建築学(建築雑誌2001.06より)
良い環境づくりに必要なこと
とあるD論発表会での質疑である。
「君、いい環境がどんなものかなんていうのは、みんな知っているんだ。環境づくりに何が一番重要か、君にはわかっていないのではないか。」「...。」「それは金だよ。お金をかければいいものができるんだ。」
少し極端な物言いかもしれないが、真実を含んでいる。ヴェネツィアが交易で莫大な富を手にしていた15?16世紀に珠玉の建築が街を彩ったのだし、日本に小綺麗なブティックが多数登場したのはバブルの頃である。
しかし、高度経済成長は終わりを告げ、バブルははじけたのだ。世界的に商品の需給バランス調整段階に突入した今、右肩上がりの成長を望めないことは明白。お金をかけるという単純かつ強力な手法を今後使うことは難しいだろう。それでは、我々はどうしていったらいいのだろうか。
研修旅行先にて
昨年の春、学生と一緒にドイツ?イタリアを回ってきた。グッチのバックやフェラガモの靴に心を奪われがちな彼女らにも、ロマンチック街道やトスカーナの小さな街々は、十分に語りかけてくれたようである。
「こんな街に住みたい。」と彼女らは言う。ドイツ男性がかっこいいからばかりではない。でこぼこの石畳も、薄汚れた外壁も、決して明るいとは言えない街灯も、魅力的なのだ。毎年舗装し直し、清掃も行き届いた明るい街に住んでいるお金持ちの国の彼女らを捉える何かがそこにある。
あれ、お金をかければいい街ができるのじゃあなかったの?
経済性の副作用
確か建築学会のシンポジウムだったと思うが、住宅情報誌の編集者の方から、住居選択の3つのPというのを聞いたことがある。Price, Place, Planだそうだ。まず、値段、次に場所。それだけでほぼ決まっていたのが、バブル崩壊後、やっと最後のPも関わってくるようになってきたという、ちょっとさみしい話題だった。
相続税対策に土地を半分に割って建てられた住宅、郊外にそびえる巨大な団地群、碁盤の目のようなオフィスビルのファサード、極彩色で訴える看板。そういうものを目にすると、経済性という指標の強引さを感じる。経済的であった環境形成が、使うとき、生活者としての我々の感覚とずれている。
近代化の弊害
芝浦工業大学の畑先生の講演を聞く機会があった。先生は日本?世界の住居調査を毎年行っておられ、スライドと共に住居とそこで暮らす人々の生活についてお話くださった。
その中で一番印象に残ったのが、「こういう社会には、老人問題、子どもの教育問題、社会的弱者の問題などは存在しないのですよ。」という言葉だった。老人も、子供も、体が不自由な人もそれぞれ共同体に溶け込んで暮らしているというのだ。そして、共同性を排除し、個人に光を当てることのみに囚われてきた近代こそが様々な問題を引き起こしたのだと言う。
21世紀の住環境形成
共同体の話を持ち出したりしたのは、これからの住環境形成には、共同体的な発想が不可欠だと思えるからだ。子供の遊び場がない、細い道路を車が走り抜ける、住居に日があたらない、このような身近で起きている事態を解決しようと思ったなら、少なくともある地区全体に了解された理念がなければ、難しいのではないか。個々の領分を豊かにするという方策では解決し得ないこういった問題が21世紀に残されてきたと感じる。
そうだとすると、我々が暮らす生活環境の理想像を目標として共有し、それに向かって建築環境も整備していくというやり方が必要になるだろう。
建築学会の役割、建築環境心理の役割
状況は個々に違うのだから、目標はひとつひとつサーベイして作り上げよう。そういう考え方もある。実際、私の周りでは、そういった方向性が大きな流れとなっている。しかし、経済や地球環境の問題を考えるとき、整備される町は100年使える基本を押さえたものでなくてはならない。となると、目標を設定するときに必要なのは、アレグザンダーのパタン?ランゲージのようなツールではないだろうか。 ?状況に合わせる自由度を持ちながら、方向性をわかりやすく示すツール。
心理的データから導かれた実際に使えるパタンを呈示することが私の研究者としての目標であり、そのような研究の集合体として環境形成のわかりやすいガイドラインができること、それが21世紀の学会に望むことという本題への回答である。